『観経』の注疏は、散逸したものも含め相当数にのぼり、それぞれの学派の立場から理知的な注釈が施されている。ところが善導の『観経疏』は、諸師といわれる学僧のそれと比較するとき、その語法上に大きな隔たりがあると考えられる。それは文語ではなく、多くは口語で語られているということである。また構造においても読者を想定して編撰されているというよりも、むしろ聴者を対象とした文章であることを考察した。