コンテクストや生活形態の複数性に鋭敏で、かつ支配や自己正当化の道具に堕すことのない新たな普遍主義の構想可能性という点をめぐって、ジュディス・バトラーとユルゲン・ハーバマスという一見対照的な思想家の「普遍的なもの」に関する所説を検討し、前者の後者に対する批判が的を射ていないことを明らかにする。