六朝の詩人謝霊運(385-433)が、深く仏教に帰依していたことはよく知られている。謝霊運は、会稽太守孟顗と湖の干拓等をめぐって確執を起こし、中央に異志ありと誣告されるが、本稿では、この孟顗との対立確執の背景の一つに、仏学理解の相違があったのではないかとの推論を行った。謝霊運は、造寺造塔に努め、仏教の外護者を任じると篤信の仏教信者孟顗の崇仏行為・態度を批判して、たかだか天に生れるにすぎないレベルの低い善行であると評し、それよりもむしろ『維摩経』に説かれるような智慧の完成を求めることこそが重要であると説く