古代中国では、「遇不遇は時なり、腎不肖は質なり」とされ、不遇は賢者の資質とは関係なく、時という異なる論理で決定される認識された。そのことを知る賢者は、不遇を「悲」しむことしかできない。藤原宇合は、不遇を賢者に特有の課題と理解し、太公望、傳説、鍾儀、蘇武などを引き合いに出しながら、不遇に対して、不変の志を抱き、時が到来するまで向き合う姿勢を理念の賢者のありようとして論じた。