「東西遊記」は、当初橘南谿の手元に写本(手控え)として諸国巡遊の記録を遺したのであったが、神沢杜口の助言が後押しとなったか、筆を加えながらも、日本全国の名所・珍所・伝説を必ずしも真偽にとらわれることなく、余すところなく、列挙して公刊された。刊行の目的は、南谿の医学的知見に基づき伝説等を分析するほかに、巡遊中に全国に襲いかかかった鐖饉・噴火などの天明の災厄の克明な記録を公表することにあったのではなかろうか。
紀行文と奇談集とが隣接共存した作品として「東西遊記」は好評に迎えられ、南谿が有していた医学的関心や災厄の記録といった目的こそ継承されなかったものの、寛政期以降の諸国奇談集の陸続とした刊行の契機となった。