井原西鶴『懐硯』(貞享4・1687年3月序)は、半僧半俗の主人公伴山の行脚を綴った浮世草子作品である。本作品以前の一人旅あるいは二人旅の「諸国行脚もの」あるいは「諸国回遊もの」と比較すると、伴山の設定や行動様式、描写方法に至るまで相違点が浮き彫りとなる。何故、西鶴は先行作品の旅の主人公とはまったく異質の主人公を造型したのか。その鍵は、「ふしぎ」な現象に対する伴山のとった態度にあると考えられる。本稿では「ふしぎ」の全用例を確認した上で、とりわけ「ふしぎ」な現象を相対化した「憂目を見する竹の世の中」(巻4の2)に着目し、伴山が「ふしぎ」を解明できないからこそ実現した旅文芸の新たな可能性を指摘し、本作品の再評価を試みた。