本稿は大正期に成立した社会事業の下で、それが地方都市鳥取においていかなる展開をみせたのか、という点を明らかにしたものである。まず鳥取市では低水準の救貧行政が中心であったことを指摘し、次に1918年の米騒動の勃発以降、行旅病人を中心に救貧策が展開されたことを明らかにした。しかしそれは負の表象としての行旅病人を隔離するためであり、当時言われたような「人道ノ上」からではなく、社会的排除論でいう貧民の周縁化に他ならなかったことを指摘した。(P190~P215)