本稿は、公的救貧制度が貧弱であった大正期鳥取市にあって、民間組織として市内で救貧事業を展開した鳥取社会事業協会(1920-不明)の活動の解明を試みたものである。第1に協会が市内で救貧網を構築していたことを明らかにし、第2に協会が市民の間に根を下ろした要因として、救貧を地域社会全体で取り組むべき公共的問題として提起していたことを指摘した。最後に、協会は鳥取市の救貧事業の牽引役であったが、一方で地域社会との妥協や、地域社会への迎合なしには存在し得なかったことを指摘した。