本稿は、明治末期からの国家的規模での救済体制の成立を、地方改良運動の動向をふまえつつ、鳥取県を例に侐救規則と地方救貧行政という視角から分析を試みたものである。まず、1908年の内務省地方局長通牒が地方救貧行政再編の契機となり、各市町村が救貧行政の整備をすすめたことを明らかにした。結論として、この時期の地方救貧行政は整備されたが、その救済水準は侐救規則以下であり、内実は低位な救貧行政の展開であったことを指摘した。