歴史的教育研究にいかなる意味がありうるかについて考察した。近代教育は、発展の歴史物語によって正当化を図る近代国家のもとで意味を有していた。しかし、その物語の虚構性が強調された結果、歴史の意味とともに教育の意味も曖昧になった。本論文では、複数性、非連続性、非線形的な物語を構想することは可能でもあり、必要でもあると考えられる。この点を、ベルクソンや20世紀チェコの哲学者パトチカの考察に依拠しつつ論じた。