中国史上唯一の女性皇帝として君臨した則天武后が、登極に際し仏教を利用したことは周知の事実である。古くは矢吹慶輝氏が敦煌遺書中の『大雲経疏』S.2658を『武后登極讖疏』と名づけ、武周革命を正当化するために『大雲経』を利用したことを丹念に論じるとともに、『宝雨経』も同じ目的で利用された経典であったと指摘している。また陳寅恪氏は、儒教経典のうちには女性が皇帝となることの理論的裏付けを求めることができないため、武周革命は『大雲経疏』という仏教の符讖に仮託せざるを得なかったと指摘している。
興味深いことに、『大雲経疏』のなかには、本来仏教とは関係のない明堂や嵩山封禅に関する記載が含まれ、独特の意味づけがなされている。そこで本報告では、『大雲経疏』のうち、より完全な姿を残すS.6502を取り上げ、明堂と嵩山封禅という、本来は仏教と無関係な儒教的儀礼建築や皇帝祭祀を、武后とその周辺がどのように位置づけ、また意味づけようとしていたのかについて考える。