武則天は仏教を利用して登極したことは周知の事実である。ただし、即位後には武則天と仏教との関係に変化が生じたとする見方もあり、とりわけ明堂の焼失とそれに伴う薜懐義の失脚後には大きな変化が生じ、仏教への関心は薄れ中国伝統思想に回帰したとする見解も提示されている。一方、仏教美術史の研究で武周期の代表的作品として扱われてきた莫高窟第332窟や長安宝慶寺石仏は、いずれも明堂焼失後に作られたものである。そこで小論では、武則天と仏教との関係について改めて整理し、武則天および武周王朝において仏教がどのような位置づけにあったのかを考察し、明堂焼失という政治危機の後であっても、武則天と武周王朝にとって仏教の優位性や重要性は揺がなかったことを明らかにする。