ユング派分析家である筆者が集中内観を体験したことにより、ユング心理学からみた内観について考察した。分析室と内観室の構造の違いから、分析と内観が、治療構造上の枠の外でなされるのか、枠の内(なか)でなされるのかを論じた。ユング派の分析のありようと枠を「物いわぬ書」(1667)で説明した。これに対し内観の枠は、内観室や内観研修所全体を包み込む大きな枠であり、そこには宗教性があることを指摘した。次に、こうした構造と相俟って、この枠の内(なか)で行われることが「当事者性」を有効にし、内観が「自助グループ」の機能をもつことを指摘した。当事者性が内観の治癒機序の一つであると考えられる。次に、内観中の「夢」と内観後の「調和について、ユング派の立場から「膠州の雨乞い師」で拡充し、内観が家族の布置にコミットする「家族療法」の機能をもつことを論じた。