迦才『浄土論』に説かれる念仏は、阿弥陀仏の本願の行としての念仏ではなく、衆生の心を西方に向け続けさせるための行である。凡夫は一つの対象にのみ心を向ける行を修するべきであり、その行が、他の想いを雑えることなく阿弥陀仏を念じる念仏であるとしている。その念仏は観念中心で、口称は補助的な役割をしているに過ぎない。